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第8話 「つる忠」の「富士」さん

第8話 「つる忠」の「富士」さん

 新春を飾るおめでたい話題をひとつ。屋号は「鶴」、「富士」は女将の名前の店がある。長野県千曲市稲荷山にある蕎麦屋で、江戸時代は「鶴屋中兵衛」という善光寺西街道沿いの馬方茶屋だった。そこの娘に生まれた市川富士さんは、おん歳80歳だが、元気溢れる女将さんで、「血液さらさら、万事異常なし」というから、そんじょそこらの同年代の女性とは、元気さが桁違いなので、敢えて年齢を紹介させていただくことにした。

 「つる忠」は250年からの老舗で、富士さんは6代目だ。馬方茶屋のころは、油揚の煮しめ・サクラ肉饂飩・鯉こくなどを売りに、「煮しめ茶屋」としての人気店だった。稲荷山は、北国街道と交わる交通の要衝で、更科地方でもっとも栄えた「問屋街」だったらしく、街並みに立派な蔵が昔の雰囲気を残しているが、残念なことに余り知られていない。近年の熟年旅行ブームでジイサン・バアサンたちがどっと押し寄せるより、じっくりと故郷の原風景をあじわえた方がよい。日本人は、なぜに団体旅行を好むのだろうか。私は、孤独の旅を愛する。人生は所詮、老いて孤独に耐えねばならぬのだから。

 人生、老いても元気溌剌で生きるには、万事、こだわりを捨てるがよい。富士さんを見ていてそう思った。店を新築したとき、古い看板や馬方が手綱を繋いだ「馬つなぎ石」を、惜しげも無く捨てるのを見た近所の常連さんが、「こんな大事なものを捨てちゃいかんよ」と、戻してくれた。誰が見ても「郷土の文化財」級の品だ。それでも、馬つなぎ石は、裏庭にポンと置いてある。老舗の看板よりも、毎日を前向きに生きる方が大切だと富士さんは思っているからだ。

 歳も老舗の看板も捨て、富士さんが好きでもなかった蕎麦打ちとして再出発したのが48歳と聞き驚いた。客の入りがだんだんわるくなり、どうしたらよいかと思案に暮れる毎日を送っていたとき、暖簾なんかに執着せず、蕎麦打ち一筋で生きようと決めたのだ。もともとは、30人からの使用人を抱えた料理屋の、8人兄弟の6番目の娘として、蝶や花よと大切に育てられたのだから、蕎麦など打ったことはない。そのうえ、莫大な借金を背負ったまま、28歳で新婚生活のスタートを切る。女学校の師範科を卒業して、ピアノを教えるインテリだった。

 「他人さまに迷惑をかけるな。欲しいものはゼニを貯めてから買えばよい」貧乏のどん底を這いずりながら、そう言って富士さんを励ましてくれた、律儀な婿さんだも偉かった。しかし、自己流で打った蕎麦の評価はさっぱりで、客は遠退く一方だった。そんな爪に灯をともすような暮らしが20年も続いた。

 48歳になって、富士さんにやっと人生の転機がおとずれる。一念発起して単身上京、多田鉄之助という名人の「蕎麦打ち学校」に入り、卒業してからの2年間は、東京の蕎麦屋で、お茶汲み便所掃除に明け暮れ、50歳を過ぎての丁稚を体験した。或る日、恐る恐る主に蕎麦打ちを願い出た。「ほな、やってみな」と、言ってくれたものの、蕎麦屋の主は、富士さんが一心に打った蕎麦を、床にたたきつけた。「あのときは、さすがに悔しくて、便所に飛び込んで泣き叫びました」どんなに苦しくとも、笑顔を崩さない富士さんだけに、さぞ悔しかったことだろう。その悔しさをバネに、蕎麦の「つる忠」を再建した。

 驚くべきことに、65歳になってまた、静岡の一茶庵(片倉英晴師)の店に修行に出向いた。「世の中には、もっと違う蕎麦がある筈」そう聞いて唸ってしまった。一茶庵は、蕎麦懐石で有名な一茶庵友蕎子の流れを汲む店で、富士さんの修行はおよそ一カ月に及ぶ。私も、蕎麦には、言葉では語り尽くせない、どこか哲学的なことろがあるように思えてならない。

 富士さんは、毎日、誰よりも早く店にやって来て、蕎麦を打ち、笑顔で客を迎え、まるで独楽鼠のように機敏に動き回る。「休む間もなくて、たいへんですね」と声をかけてみると、「こうしていると、楽しくてしかたないんですよ」と、応えがピンと跳ね返ってきた。人間、神経が張り詰めたままでは、とても続かない。富士さんは、仕事の苦労を、瞬間的に楽しさに置き換えてしましのだろうか。「蕎麦打ちは、毎日毎日、疑問がわかなくては駄目です」とも言う。音楽が好きで、クラシック音楽愛好者だ。60歳で自動車の免許を取得、大好きなクラシックCDを聴きながら走っていると、2枚ほど聴いているうち東京に着いてしまうそうだ。80歳にして、まことに見事な生き方だ。「心で蕎麦を打つ」富士さんに、いつまでも元気で蕎麦を打ち続けてほしいと願う。 〔完〕

長野県千曲市稲荷山996 026-272-1022 日・際休業