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30分あれば・・・・。

 石神 淳(取材中の店長)

 60歳で定年退職したころ、何の衰えもないのに、実質的に社会から遠ざけられるこ自分が、実に理不尽に思えた。しかし、あれから14年経ったいま、その意味が実感としてわかってきた。先ず反省したこと。現役時代は、何かにつけ、時間を無駄に使っていたか・・。そして、その無駄な時間に全く気付かなかった愚かさだ。社会の流れに任せ、漫然と仕事をし、それでも会社に貢献しているという変な自負心と奢りがあった。

『時』という存在を余りにも意識せず、定刻に電車に乗り、定時に仕事をやり、決まった時刻に昼飯を食い、一日の仕事を終えると、仲間たちと酒を飲み、カラオケを熱唱して、タクシーで帰宅。あの暮らしは、いったい何だったのか。リストラ・派遣など、後輩たちには、まことに申し訳ないが、バブル崩壊後の惨憺たる社会を、高見の見物する立場になってしまった。情けなく、まことに不甲斐なく「無縁社会」を生きる日常だ。

しかし、この閉塞的で無慈悲ともいえる社会から「さよなら」する日までは、自分自身で生き方を見つけなくてはならない。そこで、はたと開眼した。つまるところ、定年退職後の14年間を、現役時代の延長線で漫然と生きてきたことだ。「何てことはない」。これが我が身の愚かさで、環境が変わったのなら、自分なりに、『明日から固有の生き方を探ればよい』。そのひとつが『時』の再利用だった。どうせ老人は、再利用不可能な人材と、社会から放り出されかかっているのだから、自分の手で、自分自身を再利用するしかない。「何よりも、ボケ老人だけは御免だ」

定年後14年。現役感覚で、いろいろな仕事や趣味に手を出していたが、身辺には、にわかに整理不能の物が山積みされている。もし、いまポックリ死んだら・・・・。最近、廃品整理のチラシややたら投げ込まれたり、不用品改修業者の軽トラが巡回している。「整理屋」という新しい職業もあるらしい。何年か前、独り暮らしで死亡した従兄弟が住んでいた団地で、立ち退きの整理に立ち会ったが、無残に放置されたアルバムの若き日々の夫妻の写真に、涙が溢れた。「幸福は一時の風ノの如く」人生、終わってみれば、所詮、そんなものなのかも知れないが。

だから老人にとって、残された『時』は貴重で、積み重ねた『時』を再利用しなくてはならない。それは、身の回りの物を一つでも少なくする身辺整理も人生の復元も同じことだ。2年ほど前、癌で他界した親友のWがこんな事を言っていた。「机や引き出しの中を整理しているんだが、結局、左の物を右に移し、下の物を上に移動しているうち、一日が終わってしまうんだ」Wにも、人生の秘密があったが、あれはどうなったのだろう。流れ去る過去が露顕させないためにも、残された『時』を大切にしたい。故人の整理は、後に残された者にとって、極めて厄介この上ないものだと認識すべきだ。葬式にしても、最近は「家族葬」が多くなったが、自分で生前に葬式を仕切ってしまう「自分葬」なるものもあるようだ。「いやだ、いやだ」独り言を言いながら、発作的に身辺整理をやったり、遺言を書いたり・・・。

もう少し、前向きに人生を考えてみようと、やり始めたのが『30分、自己修正』だ。30分という時間を如何に有効に使うかを実践してみると、意外と、出来ることがたくさんある。「どうせ、毎日が日曜日なんだ」と、思う感覚は、まさに現役時代の悪い感性でだ。ちなみに、外出予定前の30分、観たいテレビ番組が始まる前の30分を、いろいろ工夫してみることだ。「後で・・・」という気持ちを、絶対に持たない事だ。現役時代は、その30分が「ゆとり」になったが、現在は、『時』に対する考え方を根本的に変えた。部屋掃除・洗濯・食事の片づけ・mail打ち・日記・チョットした近所の買い物等々で、30あれば、けっこう何でもできるし、生活意欲を養うことに繋がる。

結果として、孤独の勧めみたいなものだが、「自分で過去の時間を修正」することになった。昨日までにとらわれず、それぞれの立場で、残された『時』の使い方を、前向きに考えざるを得ないのではなかろうか。

                       2010.03.16更新